PUCCI 代表平澤です。
ボランティアで寄稿していただいているMayumiさんに今回は私たちが10年前に出会うきっかけとなったココゾーについて書いていただきました。
当時私もMayumiさんももう必死で記憶がとんでしまっていることもありますが、躍動感溢れる文章を読んでいて当時の事を思い出し胸がつまりました。
残念ながら10年経った今でも未だ日本各地では犬や猫を保護し必死の思いで命をつないでいる方たちが沢山います。
人間のいのち、ペットのいのち、色々ないのちがありますが、
「いのち」について考えるきっかけになればいいなと思います。
そして、どういう社会の仕組みをつくればこのような状況がなくなっていくか。
まずは沢山の方にココゾーストーリーを読んでいただきたいです。2回に分けて投稿いたします!(^^)
「ココゾーとの出会い」
前回「迷子犬ドララを捜して」を書かせていただいたMayumiです。今回は、そのドララの捜査中に出会った犬について書きたいと思います。
2005年10月10日。
夕暮れ時に1本の電話が入った。ドララ情報だ。
「お宅の捜している犬によく似た子が事故に遭って倒れています。今すぐ来てください!」
一日数回入るドララ情報。毎回確認に走るがすべて違う犬だった。今回も違うかもしれない。でもドララかもしれない。私はその時一緒にいた友人、妹、私の幼子を連れ、大急ぎで現場に向かった。その場に到着すると、20人位の人がスーパーの駐車場の、ある車の周りに集まっていた。
「すみません、ちょっと通してください。」
と言いながら皆が見ている車の下を覗いてみた。するとそこには両前足の皮膚が剥がれた瀕死状態の犬がいるではないか。皮膚は肩から足首まで全て無くなっていた。何かに巻き取られたような感じで、残りの皮膚はルーズソックスのようにダランと足首に落ちていた。瞳は潤んでいたが全く動きはとれずかすかに震えていた。人々はその様子を見るために代わる代わる覗いていた。でも誰も犬に声をかけず助け出そうとはしていなかった。その時ある中年の男性が話しかけてきた。
「この犬、朝早くからこの状態だったよ。」
この人は知っていて何もしなかった。何も出来なかったといえばいいのか。ほとんどの人がそうであるように、一度拾えばそこに責任が生まれる。だから放置するほか無かったのだろう。でも胸中はモヤモヤしたものがあった。
その時、警察官が2人やってきた。誰かが通報したらしい。その1人の警察官が、
「ドララの方ですよね?どうしたんですか?」
と話しかけてきた。交番へは何度も訪ねていたので、警察官も私の事を覚えてくれていた。
「このまま署に連れていきますか?連れて行っても処置はできませんし、すぐに動物愛護センターに送ることになりますが・・・」
このままセンターに送られたら、この痛みの中ガス室に入れられる。
「どうしますか?」という問いに私は決断した。
「動物病院に連れていきます。」
この時はただ目の前の命を救わねばならないという一心だけで、車の下にもぐりこみ、犬をそっと出した。集まっていた人たちがサッと道を開けてくれたのを覚えている。電話を下さった方がピンクのバスタオルを犬にかけてくれた。
「ドララではなかったけど、この子を連れていきます。」
と告げ、私は病院に向かった。警察官の方も後ろからパトカーでついてきてくれた。
動物病院に着くと妹が受付に急患だと伝え、すぐに獣医さんが走り出てきてくれた。診察台に乗せ脈拍等を確認した。犬はその時激しい痙攣が起きていた。獣医さんは様々な処置を迅速にとってくださり、しばらくすると痙攣は止んだ。警察官の方に、
「この犬は手当てをして私が保護します。」と言い、
「分かりました。では警察署に拾得物届けをしてくださいね。」
と言われた。犬は迷子になった時も警察に遺失物届けをする。そして保護したときも拾得物として届出が必要なのだ。しかし現実は保護した人の中で警察に届け出る人は少ないように思う。自分の犬になるには(当時)半年かかる。その間に飼い主が見つかれば返還することになるそうだ。捜している飼い主にとって拾得物届けは希望である。保護することがあれば、必ず愛護センターと警察署に届出をしてほしいと願っている。
犬は目を半分開け、ジッと私を見ていた。私に何が出来るだろうか。ドララの捜査も毎日ある。お金はない。飼い主は捜せるのか。里親は見つかるのか。そもそも、この犬は助かるのか・・・など考えていた。しかしその考えは後に後悔することになる。
「今夜がヤマでしょう・・」その言葉を聞き皆が祈った。持っていたお金を3人で合わせて払い、明日また来る約束をして病院を出た。
この時私にはどうしようもない不安がのしかかっていた。一方では、不安。一方では命が第一。両方の気持ちに押し潰されそうだった。
その日急いで帰宅したあとは、犬の命が危ないことを飼い主に知らせるために大量のチラシを作った。コンビニ、商店街のお店、掲示板等に貼ってもらった。夜は公民館などに手紙をつけてポストに入れてきた。すでに深夜だったが眠れず妹も私も友人も着替える事も忘れ、髪もボサボサなまま朝を迎えた。
翌朝、病院へ行くと、彼は生きていた。とても生命力が強い犬だった。ご飯も先生の手から食べていた。この犬は死の境をさまよいながらも自力で乗り越えたのだ。私は自分の重荷になるような事を一瞬でも考えたことを恥じた。後悔している。
大抵の犬が迷子になった場合、3日以内に見つかる確率が高いといわれている。3日勝負だと腹をくくり飼い主を探した。沢山のチラシを貼ったことで、私の携帯電話にはひっきりなしに「ドララみたいな犬が瀕死だから病院へ行ってみてください!」というものだった。知らないうちにドララのことを沢山の人が知って下さっていたことに感謝した。あまりに電話がなるので、チラシに「この犬はドララではないです」と後から書き加えて歩いた。
そして、3日経っても飼い主には繋がらなかった。この先どうするか考えたところ、インターネットで広めるのはどうかと思った。しかし私は当時パソコンを触ったことがなかった。そこで主人が沖縄迷い犬サイトに書き込んだところ、あるサイトの管理人さんから電話がかかってきた。Mご夫妻だ。その方が、
「あなたがこの犬の責任を負う覚悟があれば、全面的に協力する」
と言ってくださった。私は何の知識も無かった状態だったので、一からM夫妻が親身になって教えてくれた。当時この方のサイトで迷子犬猫をアップできるページがあり、そこに別ブログを立ち上げバナーを作っていただき、私は逐一 犬の状態を報告し、そして治療費の募金を募ることにした。
今でこそインターネットの普及が進み、毎日全国で多くの犬猫が助けを必要としていることがすぐに分かるようになった。しかし当時は私が初心者だったという事もあるが、(インターネットで募金が集まるだろうか?万が一この犬が死んでしまったらどうなるのか?)など考えながら、これも何か意味があるのだと何度も気持ちを切り替え、ドララを捜しながらではあるが動物病院に通い、犬の回復を待った。
この犬は皮膚移植が必要だった。その手術が可能な病院へ移すことになり、獣医さんの連携をいただき、別の病院へ入院させた。
私は夜になるとパソコンに向かうのが日課となった。主人からインターネットの使い方を教えてもらい犬の写真をM夫妻に送ったり、病状を書いたりした。病院へ移動する時のことを鮮明に覚えている。犬は私を見つめているだけだが、生きたいという思いからだろうか、懸命に動こうとしていた。包帯だらけの犬をみて、自分を改めてまた恥じた。彼は今生きようとしている。M夫妻をはじめ既に寄付をしてくれた人もいて、皆が前をみて進んでいるのに、私は人に迷惑をかけたらどうしようとか、お金が足りなかったらどうしようとか、そっちばかりを考えていて、なんてダメな人間なのだろうと反省した。私の心はかなり衰弱していた。
そんな時、更に救世ともなる電話がかかってきた。
その方は「mixiというSNSをご存知ですか?沖縄のサイトで知ったのですがmixiのコミュニティで募金を募るよう呼びかけたらもっと早くできると思います。」と。
その方こそがこちらのHPのNPO法人「PUCCI」代表理事である平澤さんだった。
mixiを知らなかった私はSNSを理解できなかったレベルだったので、平澤さんにも犬の状況を逐一伝え、毎日コミュニティに代理アップしていただいた。mixiでの反響は早く、募金が少しずつ入るようになった。
犬に仮名も必要となり、私の妹がココゾーと名付けた。彼女は何の犬でも最後にゾーを付けて呼ぶので、‘ここぞとして生きる’彼、ココゾーと名付けたようだ。
コメントをお書きください